オランダ大使館・オランダ総領事館, Japan

日蘭交流の歴史

1. 幕開け - オランダ船漂着


1598 年6月のある晴れた日の午後。ロッテルダムの港では、5隻の船が長い航海の途に就こうとしている。目的地はモルッカ諸島、別 名スパイス・アイラン ド。そこで胡椒など様々なスパイスを調達し、更にその先にある銀の王国“日本”を目指す。大砲や鉄砲で武装した5隻の船は、北海の荒波に乗り出した。その直後、乗組員たちはもう一つの重要な任務を知ることになる。それは、南米やアジアの各地に散らばるポルトガルとスペインの拠点を襲撃し、敵軍に可能な限りの打撃を与えることだった。大航海時代、どの勢力も生き残りをかけた熾烈な戦いを避けることはできなかった。

この航海は歴史の1 ページに刻まれる出来事となった。今から数えること400年前、1隻のオランダ船が初めて日本に漂着した。 1598年6月27日にロッテルダム港を出港した5隻の船団のうち、生き残ったたった1隻、それがリーフデ(慈愛)号である。リーフデ号は1600年4月19日、ついに異国の地を見たのだった。船団のうちの1隻、ヘローフ(信仰)号は、マゼラン海峡にさしかかる前にロッテルダム港に引き返していた。他の3隻はと言うと、ブライデ・ ボートスハップ(福音)号はスペインに、そしてトラウ(信義)号はポルトガルに襲撃され、ホープ(希望)号は嵐に襲われ海に沈んで行った。

1600 年4月19日、豊後の国さしふ佐志生(大分県臼杵市)の沖はいつもと様子が違っていた。疲れ切った姿の巨大な帆船が、碇を下ろし横たわっている。 佐志生の人々は、惨めな姿のオランダ人 - そこには少なくとも1人のイギリス人が含まれていた - を難破船から助け出し、その一方で、珍しさのあまり、船内から運び出せるものを全て持ち去った。リーフデ号は19門の大砲と、大量の鉄砲、火矢、砲弾を積んでいた。最初は110人いた乗組員も、航海を終えた時にはたった24人が生き残るのみとなっていた。その中には、後に八重洲さんとして知られるヨーステン・ファン・ローデンスタイン、そして三浦按針ことイギリス人のウイリアム・アダムスがいた。リーフデ号の船尾木像は、オランダの有名な哲学者エラスムスをかたどったもので、これは現在、東京国立博物館に展示されたいる。

時の権力者徳川家康は、漂着したオランダ船に多大な興味を示 した。船に載まれていた武器が、一番の目当てだった。リーフデ号が運んできた武器は全て没収さ れ、ヤン・ヨーステンとウイリアム・アダムスは大坂、次いで江戸に上るよう命じられた。そこで2人は、ポルトガル語の通訳を介して取り調べを受けることになる。運良く彼らの返答は家康の気を良くし、臼杵で被った損害も補償された。日本に残った乗組員のほとんどは、その後貿易に携わったり、日本人女性と結婚 している。この漂着者たちは、地図や航海術、造船術の知識、さらには西洋諸国の戦況に関する情報など、非常に役立つものを握っていた。そのため幕府はウィ リアム・アダムスとヤン・ヨーステンを重用する。そして、領地や屋敷、幕府の相談役としての地位を彼らに与えた。東京に今でも残る按針通りや東京駅の八重洲出口という地名から、2人の漂着者の過去を今でもうかがい知ることができる。彼らの忠誠がもたらした最大の成果は、幕府からオランダに発行された朱印状、つまり通商許可証である。しかしその特権を行使するのは1609年まで待つことになる。漂着から9年、ようやくオランダ船が平戸に入港し、日蘭貿易が本格的に始まる。

徳川家康がオランダ人を重用したのには、もう一つの理由があった。その頃、家康はキリスト教弾圧に本腰を入 れ始めていた。カトリック系のキリスト教に改宗した熱狂的な信者たちが、幕府の権威を脅かしていた。そこで“紅毛人”つまりオランダ人の知識に幕府が目を付けたのである。プロテスタント系のオランダ人は、目的は貿易だけであり、キリスト教布教には一切関わらない方針だった。この時期のオランダ人の日本漂着と、それに続く幕府との信頼関係の構築は、まさに時節を得ていた。
こうして、日本とオランダの関係が幕開けを迎えることとなった。

2. 日蘭関係の萌芽


ポ ルトガル人が日本に到着したのは1543年。日本にとってオランダは、最も付き合いの長い西洋国ではない。中国や朝鮮、台湾などアジアの国々との関係に至っては、当然のことながら更に時代を遡る。徳川幕府の鎖国時代において、日本との貿易を許されていたのは、オランダと中国のみだった。鎖国時代は 1641年から1853年まで続く。この200年間、オランダは唯一の西洋国として無二の地位を確立した。オランダは、自国はもとよりヨーロッパ各国の化 学、医学、知識、産物、兵器などを、長崎湾に浮かぶ扇型の人工島“出島”を通じて日本に紹介する。それと引換えに、オランダは日本の品物や知識を西洋の世界に輸出し、富を築いた。両国にとって出島は、“新しい世界への窓”以上の大切な意味を持っていた。

これ以降の日蘭関係は大きく 五つの時代に分けることができる。東インド会社が平戸の商館で活躍した1609年から1641年。出島時代の1641年から 1853年。明治維新前から第二次世界大戦前の1853年から1940年。第二次世界大戦中の1940年から1945年。そして戦後から現在に至る五つの時代である。

3. 平戸オランダ商館時代 (1609-1641


徳川家康を初代将軍とし、徳川幕府が成立したのは1603年。既に家康は、貿易を許可する朱印状をオランダに与えていた。朱印状は リーフデ号漂着から生き 残った乗組員に託され、彼らが日本のジャンク船でパタニ(現タイ)に到着した1605年、ようやくオランダ側の手に渡った。朱印状を受け取ったのは、リーフデ号の生存者クアーケルナーク叔父である、オランダ東インド会社の艦長マテリーフだった。オランダ東インド会社(VOC)は、その数年前の1602年に 設立されている。それまでアジア各地に散らばっていた小規模なオランダの貿易会社を、一つの強大な組織にまとめたのが東インド会社だ。多くの船を一斉に集め商船団を組み、世界の貿易を一手に掌握することを目指していた。また、世界で最初の株式会社としても知られている。しかし、東インド会社は単なる貿易会社ではなく、オランダ政府は外国政府と通商関係を結ぶ権限も与えていた。二回目に発行された朱印状では、幕府はオランダが日本のすべての港に入港できる許可を与えており、貿易を強く奨励する意が読み取れる。この朱印状は現在、オランダのハーグ国立中央文書館に保管されている。

実際にオランダ船が日本の港に入港し、将軍の意に添うことができたのは1609年。その年、最初の東インド会社の公式船団2隻が平戸に到着した。そしてオレンジ公マウリッツ王子からの国書が受け渡され、日本とオランダとの貿易が初めて正式に認められた。ジャック・スペックスは、平戸オランダ商館の初代館長に任命されている。九州の北西の端に位置する平戸は、中国や台湾との貿易に有利な立地である。が、残念ながら当のオランダ人は、平戸に商館が置かれたことをそれほど歓迎しなかった。なぜなら、裕福な商人のほとんどは、平戸ではなく長崎周辺に住んでいたからである。

オランダ人は漂着して以来1641年までは、自由に外を出歩くことができ、日本人との接触についても何ら制限を受けていなかった。オランダ人は平戸に鋳造所を建設し、井戸の掘削も行っていた。日本人の職人を雇い入れた時には、彼らの技術の高さに感嘆したという。しかし、日本における最大の目的であるはずの貿易はというと、あまり順調ではなかった。アジアにある他の東インド会社からの船が、計画通り日本に到着していなかったこと、そして東インド会社は中国に商館を持っていなかったため、日本で最も需要が高かった生糸を十分に供給することができなかったことがその理由である。この問題を解決するため、オランダ人は積荷を満載したポルトガル船を襲うという手段に出た。当然ポルトガル人これに反発し、オランダ人の海賊行為に対する抗議を幕府に申し入れた。その結果、幕府は日本領海内での積荷略奪を禁止した。

朱印船貿易がさかんになる一方で、幕府は“南蛮人”および“紅毛人”ら外国人との接触に対し、にわかに規制を強化した。1614年、 幕府はキリシタン禁令 を発布し、日本で布教活動をする宣教師や一部の有力なキリシタンをマカオに追放した。禁令は厳しく実行され、多くのキリシタンが殉教の死を遂げた。また、 地下活動に入った者もいた。続く1621年には、日本人が許可なく外国船に乗り込むことが禁止され、やがて海外に渡航することも全面的に禁止された。 1639年には、外国人を父に日本人を母に持つ混血児たちが、日本から追放された。その中には平戸のオランダ商館長ファン・ナイエンローデの娘もいた。彼女はバタビア(現在のジャカルタ)に流されている。一度日本を去った混血児らは、日本の家族と連絡を取ることさえも許されなかった。親子の絆を引き裂く、 非情な裁きである。このように追放された混血児たちが、故郷恋しさのあまり絹の着物地にしたためた“ジャガタラ文”と呼ばれる手紙が、平戸郷土観光館に展示されている。こしょろという女性が書いた手紙も、ジャガタラ文の一例である。1657年になると幕府は規制を緩め、家族の近況を書き記した“音信”を送ることを許可した。コルネリア・ファン・ナイエンローデも、平戸に住む家族に向けて音信を送っている。こちらも平戸郷土観光館で所蔵されている。

ポルトガル人を日本人から隔離するために幕府が出した結論は、人工島の建設だった。これが出島の始まりである。1636年、ポルトガル人は出島に住居を定められた。彼らの出島暮らしは、島原の乱において、キリシタン反乱軍幇助の容疑で国外追放を命じられる1639年まで続くことになる。この戦いでオランダ人は幕府側について戦ったが、結果は散々であった。が、オランダ人はこの痛手を無駄にはしなかった。ポルトガル人を追放しても今まで通り日本に輸入品を供 給できるから、ここは一つオランダ人に任せてくれと、幕府を粘り強く説得した。

ポルトガルに雨が降れば、オランダにも小雨が降る。これは、あるオランダ人艦長の名言である。ポルトガル人が追放され、出島は主人を失った。オランダ人を役人の目の届くところに置いておきたい幕府は、これで格好の囲い場所を得た。1640年、幕府はオランダ人を出島に隔離するためのもっともらしい理由を見つけた。当時、平戸のオランダ商館には、火災から商品を守るため石造りの倉庫が2棟あった。商館長のフランシス・カロンはヨーロッパの習慣に倣い、倉庫の破風に“Anno Christi 1640”、つまりキリスト生誕から1640年と記した。この一件が災いとなり、オランダ人はいよいよ出島に移転させられることになった。幕府はオランダ商館の取り壊しを命じ、オランダ人は1641年、平戸を後にし長崎港に浮かぶ出島に居を移した。以来、日本との接触が許された西洋国は唯一、オランダのみ となった。

4. 出島時代(1641-1853)

出島へのオランダ商館移転は、当初はオランダ側に厳しい状況を強いると思われていたが、幸いにも結果はその逆と出た。出島の面積は約 1万5千平方メート ル。アムステルダムにあるダム広場とほぼ同じ広さである。オランダ人は日本にとって世界への窓としての役目を担うようになった。西洋の科学や諸物がオラン ダ人の手を通じて日本に紹介され、“蘭学”として花開いた。フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトは間違いなく、蘭学の発展に寄与した最も有名な人 物 だろう。シーボルトは日本人の学者に、西洋の医学や薬学、その他文化的に価値の高い知識を教授した。また、たくさんのオランダ語が日本語に借用されるようになった。その中でも“ビール”は、日本人の生活に最も溶け込んでいるオランダ語と言えるだろう。

幕府は日本人と外国人との接触に対し、制限を次第に強化した。オランダ人もまた厳しい規則に縛られ生活していた。出島から無許可で外出することは許されず、女性が出島に立ち入ることも禁じられた。ただし円山の遊女だけは、出島で一夜を過ごすことを許されている。例外は、“江戸参府”だけで、この時ばかり はオランダ人も出島の外に出ることが公式に認められた。彼らは一年中暇を持て余していたようだ。ただしオランダ船が入港する8月から10月の間は、出島の 住人も忙しい日々を送った。貿易船から積荷を下ろし、荷を振り分けて、商人に売り渡す。そして船は再び日本の品物を満載し、東インド会社の豪商のもとに 去って行く。故郷からの便りが届くのもこの時期だった。


オランダ商館が出島に移転して以来、幕府が課した規制が痛手となり、平戸 時代ほどの利益を上げることはできなくなっていた。出島では、商品の値段は事前に決められ、売れ残った商品はすべて持ち帰らなければならなかった。規制は確かに厳しかったが、そんな中でも東インド会社はある程度の収益を上げており、 生糸と引換えに金、銀、銅、樟脳などを日本から輸出していた。更に、漆器や陶磁器、茶も、日本からバタビアやヨーロッパに送り出していた。

窮屈な生活を強いられていた出島でも、赴任を希望する東インド会社の商館員が絶えなかったらしい。その最大の理由は、幕府が公式な貿易の外に、個人的な貿易を一定額まで認めていたことにある。このサイドビジネスのおかげで、商館員はかなりの副収入を手にすることができ、その額は通常の年俸の20倍にも達することがあったようだ。当時の商館長の年俸は1200ギルダーだったが、3万ギルダーもの副収入を懐にしていたという記録が残っている。

18世紀に入ると、日本とオランダのそれぞれの政治的な理由から、出島での貿易が不振に陥った。幕府は、貿易船の隻数や金銀交換レー トなどについて、新たな規制を相次いで設け、それらはオランダ側の利益を圧迫した。また同じ頃、ヨーロッパではフランス革命が勃発し、一時は負け知らずだったオランダも制海権 を失うほどになっていた。1795年から1813年の間、出島に入港できたオランダ船は僅か数隻。その結果、出島に居住していた東インド会社の商館員たちは、収入源を断たれてしまった。商館長ヘンドリック・ドゥーフはやむをえず、食料や衣服などを日本人の好意に頼っていた。しかし、ドゥーフはここで時間を無駄に過ごしていない。彼は蘭和辞書の編集を手がけ、日本の役人とも良好な関係を保っていた。なによりもドゥーフは出島にオランダの旗を掲げ続けた。出島の三色旗はその頃、地球上ではためく唯一のオランダ国旗だった。

5. 蘭学 - オランダに学ぶもの


16世紀の万国共通語はポルトガル語である。オランダ人と日本人が最初に会話をしたときも、ポルトガル語の通訳が介在していた。ポル トガル人が日本から追放されると、次第にオランダ語が日本における第一外国語の地位を獲得し、オランダ語を使えることが通訳や翻訳者にとって不可欠の条件となった。“阿蘭陀通詞”と呼ばれた通訳は、世襲制に基づいており、多い時にはその数150人にのぼった。彼らは通商、外交、そして文化交流の事務役をつとめた。また、阿蘭陀通詞は西洋科学を広める上でも重要な役割を果たしていた。通詞の能力が向上するにつれて、西洋の国々が非常に高い水準の科学的知識を有していることを、日本の為政者たちが認識し始めた。

1720年、八代将軍吉宗はキリスト教関係以外の洋書の輸入禁制を緩和する。それから間もなく学 術洋書が日本に輸入されるようになっ た。オランダ語を通じ て学ぶ学問は“蘭学”と総称され、杉田玄白など高名な学者が卓越した成果をおさめた。玄白は1771年から1774年にかけて、ドイツ人クルムスの『解剖 図譜(Ontleedkundige Tafelen)』を翻訳し、『解体新書』として世に出ることとなった。『解体新書』の翻訳で直面した様々な苦労を、杉田玄白は『蘭学事始』にまとめてい る。この2編の書物は、日本の蘭学塾における必須の書となった。シーボルトが始めた長崎の鳴滝塾、江戸の芝蘭堂、そして緒方洪庵が創立した大坂の適塾など が、蘭学塾として名を馳せるようになる。そこでは医学はもとより、天文学や数学、植物学、物理学、化学、地理、用兵術など様々な学問が幅広く学ばれた。

日本に西洋科学の知識を伝えることが、図らずも東インド会社商館員の重要な役目となった。そこでオランダ側は、学術専門の商館員を日 本に送り込んだ。カス パル・スハムベルゲンの医学は、カスパル流として日本人に踏襲された。ヘンドリック・ドゥーフは、フランソワ・ハルマの蘭仏辞典に基づいて、蘭和辞典『ハルマ和解』を監修した。さらには詩をたしなむ程、日本語も上達した。コック・ブロムホフは、日本の工芸品や日常品などを収集した。しかし、最も有名な“オランダ”の学者と言えば、フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトをおいて他にない。

1823年に来日したフォン・シーボルトは、日本の国家や民族、文化についてできる限り多くの情報を収集するという使命を帯びていた。植物学、医学、薬学 に博識だったシーボルトは、日本において最も尊敬を集めた東インド会社の商館員となった。彼は長崎近郊の土地を授かり、鳴滝塾を創立した。そこで患者を治療し、医学や生物学を教え、植物園を構えた。多くの学者や患者、武士と接触できる立場にあったため、日本の生活にまつわる様々な品物を収集することが可能であった。シーボルトは薬草に関する知識を授けた礼に、日本人蘭学者からある物を受け取っている。それは葵の紋が染め付けられた着物だった。また秘密裏に、国外持ち出し禁止の日本地図も入手していた。これらは当時、外国人が所有することを禁じられていたものばかりである。これが発覚し、シーボルトは 1829年にスパイ容疑で国外追放及び再入国禁止の処罰を受けることになる。“シーボルト事件”として知られるこの事件によって、彼は妻と娘おいねを残して日本を去った。後においねは日本最初の女医として、素晴らしい功績を残した。シーボルトが日本で収集した膨大なコレクションは、現在オランダのライデン国立民族学博物館に収蔵されている。

6. 江戸参府 -オランダ人、日本を旅する

毎年行われた江戸参府は、オランダ人と日本人の役人が公式に面会する機会を与えた。日本各地の大名と同様、出島のオランダ商館長も江戸に上り、将軍に謁見するよう命じられていた。そして、風説書と呼ばれる諸外国の政情を著した報告書の提出が義務づけられていた。

江戸参府は、商館長を先頭に、商館医と商館員数名、それに加えて阿蘭陀通詞と長崎の役人も随行し、一団はおよそ150人から200人で構成された。全行程を終えるには約3ヶ月を要した。“紅毛人”の行列には行く先々で好奇の眼差しが浴びせられ、江戸参府は通算およそ170回も行われた。長崎から下関までを陸路で、そして兵庫もしくは大坂の港まで船で渡り、東海道を東に進み江戸に至った。静岡県掛川市には、江戸参府の帰途に客死したオランダ商館長ヘンミィの墓が今でも残っている。

江戸で将軍に謁見するには、数々の高価な贈物が必要とされた。遠眼鏡、西洋医学の道具や薬、大砲、地球儀、さらにはシマウマやラクダ、サルなど南国の珍しい動物なども贈られている。西洋科学の書物も、特に喜ばれた。1638年に将軍に贈られた銅製のシャンデリアは、外交問題の解決に一役買った。この大燈篭は現在も、徳川家康を奉る日光東照宮に安置されている。この大燈篭の御礼に、将軍はオランダ人に高価な絹の着物を下賜した。

7. “阿蘭陀”美術

オランダ人の出島での生活や江戸参府の様子は、日本人絵師を大いに刺激した。出島の暮らしぶりを描いた長崎絵は、長崎を訪れる旅行者の最適な土産物となっ た。またオランダ人の姿が陶器の絵柄にもなった。オランダから運ばれてきた絵画や絵本なども、絵師に創作のアイデアを与えていた。司馬江漢は一度も見たことのないオランダの風景を描いているが、その絵にはオランダに無いはずの山が描かれている。

川原慶賀は、フォン・シーボルトの個人的なアシスタントとし て、19世紀初期の出島の様子を絵筆で克明に記録している。これら長崎絵やオランダ人の絵柄をあしらった陶器、その他オランダにまつわる工芸品は、長崎県立美術博物館、長崎市立博物館、神戸市立博物館で見ることができる。

8. 花の時代の終わり - 江戸時代末期


19世紀は世界の政治情勢が大きく変化した時代である。オランダは海の覇権を失い、代わりにアメリカとイギリスが勢力を拡大していた。アヘン戦争 (1839-1842)でイギリスは中国に対し、国際貿易港として5つの港を開港し、香港を割譲するよう要求した。日本を追放されオランダで研究生活を送っていたフォン・シーボルトは、オランダ国王ウィレム2世にこう進言した。将軍に直ちにアヘン戦争の結果を知らせ、鎖国を撤廃するよう促すべきである、と。ウィレム2世がシーボルトの助言に従い書いた国書は1844年、正式な儀式を経て長崎奉行を通じ幕府に手に渡された。幕府はオランダ国王の配慮には感謝したものの、助言に従うことは拒否した。しかしオランダはドンケル・クルチウスを出島の商館長として送り込み、再度将軍に開国を勧告した。1852年、クルチウスは、アメリカが武力で日本に開国を迫ろうとしている、と将軍に忠告をした。しかし幕府は最後まで忠告に耳を貸すことなく、1853年のペリーの黒船来航を迎えてしまった。

9. 日本の近代化


1853 年のペリーの黒船来航を境に、日本は鎖国を捨て、急速な近代化に向かうこととなった。それから50年の間に、日本は封建社会から近代的な西洋デモクラシーの社会へと急変した。オランダ人はそれまでの特権的な役割は失ったが、両国の親密な関係に変わりはなかった。開国当初、日本と諸外国との公式な折衝はすべてオランダ語で行われていた。つまり日本人とアメリカ人との最初の会話にも、オランダ語が仲介役を果たしていたわけである。しかし、日本人は世界の列強の力関係が変化していることを察知した。そして西洋諸国に追いつこうと、幕府はアメリカとヨーロッパに使節団を派遣した。それと同時に、幕府は近代化の礎を築くため、西洋の専門家や学者を日本に招いた。造船、海軍、医学、薬学、土木の分野で、オランダ人は日本の近代化を支援することになった。

ペ リー来航の直後、将軍はドンケル・クルチウスにオランダから蒸気艦を派遣するよう要請した。それを受けてオランダ政府は、日本に軍艦スンビン号を献上した。この船は後に“観光丸”と改名される。航海術や砲術、更には造船術の教育を目指して、長崎に海軍伝習所が設立された。スンビン号の艦長だったファビウスと乗組員が、最初の教師として教壇に立った。あの勝海舟も生徒として名を連ねていた。観光丸の成果を見届けてから、幕府は2隻目の蒸気艦の発注を決定する。この船はヤパン号という名で日本に到着したが、“咸臨丸”と改名された。この船が、勝海舟をアメリカに運んだ船である.

ヤパン号に乗って、エンジニアのハルデスと、海軍医のポンペ・ファン・メールデルフォールトが来日した。ハルデスは日本で最初の船舶修理工場と造船所を設立した。これが後に三菱重工長崎造船所へと発展する。

ポンペ・ファン・メールデルフォールトは、フォン・シーボルトの足跡に続き、長崎に最初の西洋式病院を建設した。さらにポンペの業績はA.F.ボードワン、C.G.マンスフェルト、K.W.ハラタマ、A.C.J.ヘールツに受け継がれ、 近代的な医学教育体系の発達に大きく寄与した。大阪大学医学部の基礎は彼らオランダ人が築いたものである。ハラタマは大阪に化学専門学校の舎密局(せいみきょく)を創立し、そこで薬学と化学を教えた。またハラタマと彼の生徒は、日本で最初の近代硬貨に使用された合金を開発している。

10. 洪水から日本を守る


日本政府が招聘したオランダの水工技術者の残した業績は、今でもはっきりとした姿を残している。山がちな日本の国土で繰り返される洪水を食い止めるため、 彼らオランダ人はこの挑戦に立ち向かった。また、近代的な港湾の建設にも力を入れるため、C.J. ファン・ドールンが最初のオランダ人技術者として日本に招かれた。彼は福島県に安積疏水を開削した。猪苗代湖畔には、ファン・ドールンの銅像が建てられて いるが、この銅像は第二次世界大戦のために供出されそうになったところを地元住民が反対し、現在に至っている。

日本政府の要請を受けて、ファン・ドールンはさらに数名の技師を日本に呼び寄せた。こうして来日したのが、ヨハネス・デ・レイケである。デ・レイケは学位こそなかったが、実地で申し分のない技術を磨いていた。またA.G.エッシャーも仲間の一人だった。彼は世界的に有名な画家 M.C.エッシャーの父であり、画家のエッシャーは父が日本から持ち帰った浮世絵に多大な影響を受けたと言われている。

ヨハネス・デ・レイケの招聘は、日本にとって最高の選択となった。彼は日本に30年以上滞在し、土木局長、つまり内務省事務次官級の役人にまで昇進した。 おそらく彼は日本において、高級官僚として認められた唯一の外国人であろう。デ・レイケの卓越した技術は、大阪の淀川、そして木曽三川の治水工事で存分に発揮された。木曽三川の河口付近では、流れの異なる3本の川が合流しており、洪水が頻繁に起こっていた。ヨハネス・デ・レイケは、防波堤や水制、さらに土壌の浸食を防ぐため木を植えるといった工法を用いた。オランダは山がないため、デ・レイケは砂防ダムを建設した経験など全くなかったにも拘らず、このような 技術も使いこなすことができた。更に彼は大阪港、長崎港、横浜港など日本の近代港湾の設計にも携わった。この時期、合わせて12人のオランダ人水工技師が来日し、日本人の生活を洪水から守るために力を尽くした。

オランダからの技術者招聘のほかにも、明治政府は日本の学者をオランダへ派遣していた。西周や津田真道はライデン大学に学び、福沢諭吉もオランダに遊学し た。

日本の開国を契機に、日本とオランダは正式な外交関係を結んだ。1859年、横浜に最初のオランダ領事館が置かれ、後に東京に大使館が開かれた。また1868年には神戸にオランダ領事館が設置された。しかしながら、インドネシアにおける日蘭の武力衝突は、長年にわたる両国の友好の歴史を以ってしても、 残念ながら回避できなかった。

11. 歴史の闇(1942-1945)


第二次世界大戦は、長きにわたる日蘭関係において、一瞬の断絶をもたらした最初で唯一の出来事である。天然資源の確保と大東亜共栄圏 の構想を実現するため、1942年1月10日、日本軍はインドネシアに侵入した。当時オランダの植民地だったインドネシアは、石油や天然ゴム、胡椒、スパイスなど天然資源が たいへん豊富だった。2ヶ月間にわたる戦闘の末、オランダ国軍は降伏した。そして4万人ものオランダ兵が捕虜として収容所に連行された。それに引き続き、 インドネシアに住んでいたオランダ人の一般市民も強制労働キャンプに移送され、遠くは長崎や北九州の炭坑に連れられて行った。

日本軍のインドネシア占領が終戦と共に終わり、最終的にインドネシアは独立を果たした。大戦後、オランダは植民地主義の列強から離脱 し、日本は1951年 まで米軍に占領された。この間、過去に培ったはずの日蘭関係は覆され、大戦による傷跡は今でも二国間関係に影を落としている。

12. 日本とオランダの現在(1945-)


1952年、オランダは日本との国交を正式に正常化した。江戸時代から明治にかけてオランダが果たした特別な役割はもはや過去のもの となり、多くの日本人にとってオランダはヨーロッパ諸国のうちの一つになってしまった。

1950 年代後半、日本とオランダの関係は、経済、文化、科学技術の分野で、新しいスタートを迎えた。KLMオランダ航空が日本に就航し、フィリップスは 松下電器産業の成功の基礎作りを支援した。オランダの切り花が輸入されるようになり、日本人の暮らしに花を添えた。1960年代に入ると、アムステルダム のコンセルトヘボウ・オーケストラが日本人の音楽を聴く喜びを与え、ファン・ゴッホやレンブラントの名画がたくさんの観衆の心を奪った。蘭学の息吹は、それぞれの大学で脈々と引継がれている。

しかし、オランダが再び日本人の意識に登るようになったきっかけは、東京オリンピックだろう。柔道は、 1964年に開催された東京オリンピックで、初めて 公式種目として認められた。金メダルは日本人選手が独占するに違いない、と日本中の誰もが期待していた。しかし、オランダ人選手アントン・ヘーシングに よってその期待は打ち砕かれた。柔道無差別級でヘーシングが神永選手から金メダルを勝ち取った時、どれほど多くの日本人が涙を流しただろうか。アントン・ ヘーシングは今でも偉大なスポーツマン、そして一部の世代には最も有名なオランダ人として知られている。

1983年、日本とオラ ンダの関係は、長崎県西彼町のオランダ村開園を機に、大きな飛躍の時を迎えた。オランダ風車が最初に建てられ た。それに続いて東インド会社の帆船やオランダ風の建物が姿をあらわし、オランダ製品と共にたくさんの日本人観光客を呼び寄せた。ゴーダチーズや木靴などが人気を集めた。オラ ンダの絵本作家ディック・ブルーナが創作した“Nijntje”(ナインチェ)は、日本ではうさこちゃんやミッフィーちゃんとして親しまれ、世代を問わず多くの日本人の心を掴んでいる。オランダ村が成功をおさめたため、拡張計画が打ち出された。それが1993年、佐世保市にオープンしたハウステンボスである。

“ハウステンボス”は、オランダ国王の宮殿にちなんで付けられた名前である。長崎ハウステンボスは、規模そして内容とも最初に造られ たオランダ村をはるかに凌ぐスケールを誇る。ハウステンボスの理念は、単なるテーマパークに留まらず、人々が暮らし、働き、余暇を楽しむことのできる本物の“コミュニティー” を創ることにある。オランダの有名な建築物が原寸大で立ち並び、ハウステンボス宮殿までもが再現されている。宮殿のなかには美術館がある。ハウステンボス内のレストランでは、オランダをはじめヨーロッパ各地の料理を味わうことができる。オランダ王室は、長崎ハウステンボスに本物の宮殿 と 同じ絵画を飾ってはならないと言う。そこでオランダの有名な若手画家ロブ・スホルテを招き、壁画の間を造ってしまったのだ。彼の壁画“Apres nous le Deluge”(フランス語で“あとは野となれ山となれ”という意味)は内外に誇るべき素晴らしい作品として、来訪者を魅了している。

長い歴史にも消されなかったオランダの足跡は、目だけでなく耳でも感じることができる。
現在日本語に残っているオランダ語からの借用 語は、主に鎖国時代に その起源を遡ることができる。多くの日本人はそうとは気付かずに、オランダ語の言葉を日々使っているのではないだろうか。その良い例が、ビール、コー ヒー、ガラス、ピストル、オルゴール、おてんばなど、オランダ語の音をそのまま真似たものである。また、病院や盲腸、炭酸などオランダ語の意味を漢字に転 換したものなどもある。これらの言葉は、オランダの影響が日本人の日常生活にいかに色濃く残っているかを示す、ほんの一例に過ぎない。